七尾城


 

七尾市の「七尾」は、七尾城という日本の戦国時代の山城の名前に由来しています。

 

七尾というのは、尾根(山ひだ)が7つあるということで名付けられています。

 

その尾根には一つ一つ名前が付けられていて、松の尾、竹の尾、梅の尾、龍の尾、虎の尾、亀の尾、菊の尾と呼ばれています。

 

七尾城は、松の尾の頂上、標高(海抜)約300mの城山と呼ばれる山の一角に本丸跡があり、周辺には(二の丸跡、三の丸跡、遊佐屋敷跡、温井屋敷跡などの)屋敷跡や、(武器を保管した調度丸跡、乗馬の訓練をした桜の馬場跡、寺屋敷跡、安寧寺跡など、)平坦な場所が数多く残されています。

 

また、麓(古屋敷町)から本丸跡への旧道(大手道)沿いには、時鐘跡、番所跡、沓掛場などの地名が残り、麓にも屋敷跡や町屋跡が拡がっています。

 

七尾城は、中世の城郭でも屈指の規模を持つ山城で、広範囲に積まれた石垣が往時を偲ばせてくれているということで「中世五大山城」に選ばれ、昭和141939)年に国史跡に指定されています。

 

また、(公益財団法人)日本城郭協会が選定した「日本百名城」にも、石川県内では七尾城が金沢城とともに選定されています。

 

七尾城の城主は、(室町幕府足利家に繋がり幕府管領でもある畠山家の一族で、管領職も務めた)能登守護畠山満慶(みつよし)を初代としています。

 

畠山満慶が能登畠山家を創設したのは応永151408)年で、築城は能登に入国(初代、第2代は京都在京)した第3代義統(よしむね)の文明91477)年以降で、永正年間(15041521)と考えられています。

 

11代の畠山義隆(よしたか)が没する天正41576)年まで能登畠山家は168年間続きましたが、天正51577)年、越後の上杉謙信によって難攻不落を誇った七尾城は落城しました。

 

その後の七尾城は、天正91581)年に前田利家が織田信長より能登一国を与えられて入城しましたが、利家は天正101582)年には新たに市中所口に城を築き始め、その後金沢城に移ったため小丸山城に兄の前田安勝が城代として入り、文禄51596)年までには廃城となって忘れ去られた城となっていました。

 

江戸時代後期の頼山陽によって上杉謙信「九月十三夜陣中の作」の漢詩が紹介されて、七尾城が再び全国的に知られるようになりました。

 

「あゝ七尾城」は、1577年の七尾城の落城に至る戦いが歌われ、間に九月十三夜陣中の作が吟詠されています。